大学よりも大学的な初期の大学のようなもの

Posted by admin on 16 8月 2017 at 11:49 am | Tagged as: Poetry&Philosophy

僕はいつも時代と逆行したものに興味をもってしまう。普及しつくして競争原理がはたらくモノゴトに関しては徹底して競わず争わず席を譲りたくなる。種を蒔き、最初の芽が出るまで水は注ぐが収穫期を待てず、また異国に赴きたくなってしまうわけだ。
アテネのアカデメイア発〜新プラトニズム〜メディチ家経由のアカデミー創設期では「人が写し出す世界の探究」と「神が生み出したもうた宇宙の観察」が不可分なシンフォニーを奏でていた。
当時のサロンでは自由七科の外周にアーユルベーダ、カバラ、スーフィズムなど、東方の異国の叡智も意識されていたはずだ。
沢山の大学が少子化の危惧のなかで専門学校化し、藝術の分野も食いぶちのための修辞要素に傾斜しつつある昨今、外的な権威や階層価値が付着する以前の、もっと純粋な、すぐには食えないが自分への絶望や世界への疎外は回避できるような「智」の探究にワクワクしている自分がいる。
50歳超えて初期衝動の熱を帯びた「大学よりも大学的な初期の大学のようなもの」を一から準備したくなってしまい、未学な15歳の青年のような青くさい野心に困っている。
そういえば15歳の頃「格物致知」から命名された格致高校に通ってたなぁ。いま思い出すとクラシカルなヤンキーと高学歴な輩が混在する新しきを生み出すカオスに満ちていて、その頃からビザンツな学術体系に憧れて、ベッドの下のエロ本ならぬ「気難しい本の隠れ読み」をしまくっていた気がする。
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