
その文化の背景にある”蜜のしたたるような本質”に触れるとき、
その「場」とも「間」ともいえるところには、それが時間であれ
空間であれ、およそ物理的なものを超えた、生命感覚とも霊性と
でもいうべき気配が立ちこめている。
それは、伊勢や出雲であったり、未開の頃のチベットやアラスカで
あったり、 1920年代のフランス植民地であったり、70年代の東海岸
であったり、 はたまた今朝方見た夢の中での、まだ行ったこと無い
はずの街の景色で あったりする。
流行として消費していくものや、商業行為としてかかわるような
上っ面な 文化とは、全く質の違う、
いわば、命をかけた真剣な古典的恋愛感情のような純粋投影の
なかでのみ、触れることの出来るような臨場感の森に分け入るとき、
そこには、たんなる都合のよい情報であることを超えた 大きな意志
のようなものとの蜜月が訪れる。
その時もはや、その「文化」が「人」の都合で消費されるのではなく、
逆に「人」が、その「文化」の本質を伝える媒体として端末機能に殉じ、
その深層意志の発露を担わされるような、不可思議な瞬間が訪れるのだ。
いわゆる、本当の意味での”創出”という行為。
若い人達と過ごすとき、その若者が、ある時期突然老けて生命力を
失って しまうのか、それとも歳を重ねるごとにますます若く円熟して
いくのか、 その目安として、レトロなるものへの想像力や感受性の
有る無しという 基準がけっこう当てになると思っている。
それは、レトロ=懐古趣味という文字通りの直訳のことではない。
むしろレトロという文脈を嗅ぎ分けられずに表層の流行に乗っかって
いた 人が、その若き日の過ぎ去りに固執して新しいものの否定の
うちに 老いてしまい、新しい角度での温故知新を見逃してしまうと
いった残念な状況こそを、悪意をこめて懐古趣味というのだとおもう。
「流行の同時代における共有」は経済の活性化以外に
”個々人が抱える文化的孤独からの解放”というメリットを与えるが、
同時に時間の流れは人々の間に「早い/遅い」の優劣感情や
一部の進歩的自負をもつ人々の傲慢さも招き入れてしまう。
過去から未来に矢のように流れる時間上の新旧の尺度そのものを、
100年単位のスケールでもう卒業すべき時期だとみなすとき、
『今』という瞬間に無意識界と顕在意識界を行き交う様々な時代の
特性達と色彩豊かな交信を楽しむことは、
”自分という感性を生かしきる”という意味において、
常に表現における新鮮さをもたらしてくれるのだと思う。
もちろん、科学技術の応用や国際社会上の力関係などは、
あいも変わらぬ圧倒感な力でもって、矢としての進歩の速度を武器に、
実社会における 優劣の格差を突きつけてくるだろうけども…。
Posted by admin on 06 10月 2009 | Tagged as: Poetry&Philosophy